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つぶやき
作品のこと、制作のこと、友人・知人のこと、・・・・・。私が思っていることや考えていることなどを思いのままに徒然に書いています。
また、私のことが載った記事や本の紹介などもここに書き込みました。

聖別の芸術                                     淡交社
この本が出版されてから大分年月は経ちましたが、私の制作につきまして書いていただいた最初のものです。
どうぞご興味を持たれましたらご覧ください。
制作について                   2011年2月

私にとって、モノつくりというものを考えた時、やきものをしているからかも知れませんが、縄文時代の火焔式土器をまず考えます。突然現れたあの装飾過多な土器です。あの造形力を目にした時、現代人の私にとってはどのような思いに至ればあのようなものを創ることが出来るのでしょうか。学問的にではなく、モノをつくる制作者としての感覚をあの火焔式土器の制作者達と重ねたい思いに駆られました。それらは造形的にというよりも、精神的な求めから創り出されたものなのだろうと考えるうちに、現代の美術あるいは工芸のステージから制作をスタートすることに違和感を持っていた私は純粋に「祈リ」――完成されたかに思われる世界宗教のようなものではなく、誰もが持っているであろう原始的宗教観として――をテーマとすることを選びました。私にとっての神――日常から非日常へと導いてくれるモノ――を求めることが、私の制作における自然なスタンスに思えたからです。その思いから、私だけの「祈り」をテーマにした作品を中心に黒化粧研出文という技法を用いて25年間発表し続けて参りました。


制作について                  2010年10月

 私にとって、ものつくりというものを考えた時、やきものをしているからかも知れませんが、縄文時代の火焔式土器をまず考えます。突然現れたあの装飾過多な土器です。あの造形力を目にした時、現代人の私がどんな思いに至ればあのようなものを創ることが出来るのか。学問的にではなく、ものをつくる制作者としての感覚をあの火焔式土器の制作者達と重ねたい思いに駆られました。それは物質的に生きるためではなく、精神的な求めから創り出されたものだと考えるうちに、私の制作も現代の美術あるいは工芸からスタートさせるのではなく、純粋に非日常的私観としての「祈リ」――完成されたかにみえる現代に続いている世界宗教ではなく、誰もが持っているであろう原始的宗教観として――をテーマとすることを選びました。それが私の制作における自然なスタンスに思えたからです。

 その思いから、私だけの「祈り」をテーマにした作品を、個展を中心に約17年間発表しています。

 

また、それと並行して現代工芸美術の立場から「かたちと装飾」をテーマとした作品を発表しています。この方のテーマは、やきものは大体が出来上がると何年経っても制作当時の美しさを保っています。しかし私はそれに飽き足らず、私のやきものへの未知の思いとして、「今、創ったが何年も経過したように思える表情を持ったものが創れないか?」と考えました。私の好きな、遺跡や仏像の風化した表情、一瞬にして時間の経過を感じることが出来、その力強さを伝えるようなものを持った作品を創りたいと考えました。そして、そのような思いで制作したものを「日展」などの公募展などで発表しています。


制作について                         2009年7月

私がものをつくることを意識したのは、縄文の火焔式土器と言われるものを見たときでした。私の想像で、「どうしてあの時代にあのような装飾過多のものが発想出来、現代人が見ても造形美に優れたものを創れたのか?また、どうして創ろうと考えたのか?それを創った者こそが作家なのではないか」と思えました。物理的実用よりも精神的な創造、心を満たすために創らなければ居ても立ってもいられない状態で創造することこそがものつくりではないかということです。

 そんなことから私は約17年前から自分の内にある原始的宗教感(アニミズム・シャーマニズム・トーテミズム)をテーマとし制作を始めることにしました。そして、質感を風化した石像や仏像等の、一見して時間の経過を感じ取れるようなものが必要となりテストをしていく中で「黒化粧研出文」という技法をつくり出すに至りました。